“自由”であることの負荷

2009.01.30

ライフ・ソーシャル

“自由”であることの負荷

村山 昇
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表

【沖縄発】 「~からの自由」に甘えることは簡単だが、「~への自由」を獲得することは難しい。個々の生きる力が脆弱化すればするほど、「自由であること」は危うさを増す。

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先週末から沖縄・本島に短期滞在しています。
今回も休み半分、仕事半分・・・といいますか、
私の場合、「仕事と遊び」、あるいは「働くことと休むこと」の境目はなく、
両者が和合している『ライフワーク・ブレンド』の状態なので、
まぁ、気が向けば仕事をするし、ときに気が向けば観光するし、
また、その出かけた足で、移住場所の土地探しもやるといった過ごし方をしています。

南国ではすでに始まった「桜祭り」。
末部の写真は、北部にある今帰仁城址で撮った1枚です。

* * * * * * *

さて、日本人にとって、沖縄といえば、今では観光地としての顔が濃くなっていますが、
忘れてならないのは、沖縄が“祈りの地”であることでしょう。
沖縄平和記念公園、ひめゆりの塔に出向くたびに
戦争に駆り出され、命を散らしていった若い男女のことが想い出されます。
(合掌)

狂気の中で狂気を強要された時代、
当時の青年たちに「自由」などというものはなかった。
個々の才能をひらく自由、職業選択の自由などは
国家権力によっていとも簡単につまみつぶされ、
紙切れ1枚で、「殺し合い」という役務に身を投げるしかなかった。

さて、それから、約60年以上が経ち、世は平成ニッポンの時代。
現在の私たちには、自由が溢れるほどあります。
これは過去の人びとが苦労して獲得してくれた賜物なのですが、
そんな歴史的認識や恩などは、ほとんどの人の頭から抜け、
「自由であること」が空っぽになり、重荷にすらなっているように思えます。

「やりたいことがわからない」、
「どう生きたいか特に希望はない」、
「とりあえずこの会社に入ったが、あとは何となく生きている」・・・などなど、
目の前には自由という大海原があるにもかかわらず、
漕ぎ出すことができない(しない)で、浜辺でうろちょろしている場合がほとんどです。

ピーター・ドラッカーは次のように言います。
「自由は楽しいものではない。それは選択の責任である。
楽しいどころか重荷である」。

(『ドラッカー365の金言』より)

また、エーリッヒ・フロムもこう指摘しました。
「(近代人は)個人を束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、
個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という
積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。
・・・かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、
あるいは、人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの
二者択一に迫られる」。
(『自由からの逃走』より)

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村山 昇

キャリア・ポートレート コンサルティング 代表

人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。

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