~高度成長からバブルを駆け抜け、さらなる未来へ~ 1980年~90年台にかけての日本経済のバブルが膨れ上がって破裂前後の頃の、筆者のドロドロの商社マン生活の実体験をベースに、小説化しました。 今も昔も変わらない営業マンの経験する予想を超えた苦楽物語を、特に若手営業マンに対して捧げる応援メッセージとして書きました。
第一章 田舎学生から激動の社会人生活へ
「今日からここが君の机だ。 これからは、人身売買
以外は何やってもいい。 自由に好きなようにやって
くれ」
人事部に連れられ、配属先である9階の大日本商事機械・プラント部
の金田部長に挨拶をした宮田真一は、金田部長から案内された自分の
机を見て、目を疑った。
< ほ、ほんまに机と電話しかあれへん・・・・ >
宮田は、大学のゼミの教授が言っていた言葉を思い出していた。
「君が志望する総合商社というのは、売上高は巨大で、 世界各国で
ビジネスを展開しているが、実はオフィスには机と電話しかない。
机と電話を使って、あとは人間の知恵と知識、想像力と行動力で
ビッグビジネスを創出していくのだ。
生半可な気持ちではやっていけない大変な仕事だ。 まー頑張って
ください」
ロマンにあこがれて、生まれ育った大阪を抜け出し北海道の大学をめ
ざした宮田真一は、大学では山岳スキー部に所属し、キャプテンを務
めた。
まじめにゼミに出席する経済学部経営学科の同期の連中を尻目に、ほ
とんど大学には来ず、北海道の大自然に入り浸っていた。
夏は,日高や大雪山系にこもって、数千年前に氷河が山肌を削り取っ
て出来た野球場のような、カールと呼ばれる深い谷の斜面や、お花畑
の横の、落石がごろごろ転がっている雪渓で、野生のヒグマと隣り合
わせになりながら、一日中夏スキーをして過ごしたり、冬は、利尻岳
や知床、日高、ニセコなどの厳冬期の冬山で、雪崩が頻発するような
急斜面で,深雪スキーを楽しんでいた。
大学4年生になると、卒業後の進路としてどうしても商社に行きたい
と考えるようになっていた。
海外で仕事がしたかった。
こせこせした狭い日本だけでサラリーマン生活を終えることが嫌で嫌
で仕方なかった。
見知らぬ外国で、色々な外国人と堂々と渡り合って、日本企業の先兵
として、彼らと苦楽を共にしつつ、大きなビジネスを自分の力でまと
めあげて、巨大な製鉄所や石油化学コンビナートの建設現場に、びし
っと決めたスーツ姿にアタッシュケースを手にして、チャーターした
ヘリコプターなんかで颯爽と到着し、現場に降り立つかっこいい自分
をイメージしていた。
「おい!宮田。 出かけるぞ! 支度しろ」
配属された日の翌日、OJT(On the Job Training)を担当してもらう
ことになった課長代理で、隣の机に座っている関から,突然大声を掛
けられた。
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