『間違いだらけの教育論』(光文社新書/諏訪哲二)。 世の中で語ることが憚れるような雰囲気が醸しだされ、なかなか語られていないことが、そこには堂々と記されており、深く頭を垂れながら読ませていただきました。 権威・権力「だけ」を振りかざすタイプの教師も実際にはいるでしょう。しかし、だからといって、教師には権威・権力が全く不要だ、と言うのは筋違いです。 慮ろう、「啓蒙」としての教育を―
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の話題を元に、本サイトの読者層に合わせた形で修正しております。
教育の本質的役割について見事に表現した、素晴らしい書籍に出会いました。
『間違いだらけの教育論』(諏訪哲二)
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書籍のオビにて、名指しで取り上げられ、批判されている(人物批判ではなく、その人物が発する言葉への批判が中心なんですけど)方は次の5名(敬称略)。
◆斉藤孝
◆陰山英男
◆義家弘介
◆寺脇研
◆渡邊美樹
皆さん教育界では著名な方ですが、僕自身「この方が○○と発言するのもわかるんだけどな、なんか、こう…」という、胸のつっかえのようなものを感じていた5名でもあります。
注)つっかえの大小には差がありますし、人物としては好きな方、嫌いな方が混じっていますが。
なので、オビを見て衝動的に購入したのですが…
期待をはるかに上回る、様々な教えを頂戴し、1日で一気に読み終えてしまいました(面白くて、面白くて…もちろん、interestingという意味での面白さです)。
彼が一貫して本書で主張していることは、下記文章に現れています。
「私の位置づけでは、まず「啓蒙」としての教育が人間形成の土台にあり、その上に「文化」としての教育があり、最上階に「真理」としての教育はある。」(145ページ)
教えてくれる人への憧れから踏み出す学びを最も大切とする考え方や、教えられるのではなく自ら学ぶことこそが大事とする考え方は、かっこいいし、キレイだし、素敵に聞こえるし、受け入れやすい。
そして、これらの考え方は、教育の中での1つの大切な過程を「大切にしよう」と訴えているのは確かです。
しかし、現代社会において、余りにも軽視されている(と思われる)“「啓蒙」としての教育”。
この部分をを堂々と語る―
ずっと現役教師であり続けた(現在は定年退職されています)諏訪氏ならではの、(過信ではなく)自信、真摯さ、そして「本気で子どもたちのことを考えている」という姿勢が伝わってきます。
#批判している5名についても、その方の言動や著作に十分に触れ、考え方を一回受け入れ、理解しようとした後での批判であることがとってもわかる、真摯な姿勢を感じます。
「啓蒙」としての教育、とは。
序章で、ヘレン・ケラーがサリヴァン先生から多大なる愛と学びを受けた過程を取り上げながら、こう語られています。
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