朝青龍、安倍晋三の道理

2007.09.13

組織・人材

朝青龍、安倍晋三の道理

坂口 昌章

安倍総理大臣辞任のニュースを聞いて、なぜか朝青龍のイメージと重なった。両者に共通する課題とは何か。

 朝青龍は一人横綱として相撲界を一身に背負ってきた。相撲協会を含めた相撲業界が朝昇龍に依存してきたのは事実だろう。元々、朝青龍にはいろいろな問題があった。しかし、短所には目をつむり、長所を評価していたのだ。
 しかし、白鵬が横綱になったことで、朝青龍へのポジションが微妙に変わってきた。相撲業界も朝青龍への過度の依存に後ろめたい部分があったのかしれない。これまで目をつむっていた短所が目につき出した。その象徴的事件がモンゴルでのサッカー問題なのではないか。
 我々がショックを受けたのは、横綱である朝青龍の精神的な脆さが露呈したことだった。日本人の心の中には、「横綱は神聖なもの」という認識がある。人格も精神力も凡人を圧倒するものでなければならないと。しかし、我々が目にしたのは、世間知らずで力の強い普通の27歳の男性だった。
 しかし、考えてみれば当然のことだ。朝青龍は、相撲に強かったから横綱になったのであり、人格や精神力の審査があるわけではない。横綱になるプロセスは、実質的に相撲の強さだけだ。したがって、K1などの格闘技のチャンピョンと何の変わりもない。そういう力自慢の若者に「品格」を押しつけようとしても無理だろう。品格を問題視するならば、品格のある力士を横綱に選べばいい。あるいは、各部屋では品格を高めるような訓練をするべきだ。朝から晩までちゃんこと相撲の稽古に集中していれば、品格ある横綱に育つのだろうか。
 同様の問題は親方制度にもあるのではないか。力士が引退して親方になるが、力士としての技能は部屋の運営能力は別のものだろう。それは、相撲協会の理事長も同様だ。
 今回、国際柔道連盟の理事の選挙で日本人が選ばれなかった(後に理事長推薦で日本人一人が議決権のない理事に就任)という事件が起きた。全日本柔道連盟はショックを受けたが、国際スポーツ「ジュウドウ」は日本の柔道とは別物なのだ。「ジュウドウ」は日本の柔道を基本に世界の様々な格闘技を融合させ、それら格闘技の選手も吸収して発展してきた。その運営に、頑に日本柔道の原則を持ち込もうとすれば、「ジュウドウ」側は否定せざるをえない。
 実は、日本の相撲も、外国人力士を大量に受け入れたことで、実質的に国際スポーツになっている。おそらく、今回のモンゴルサッカー問題も、相撲協会の規約が明確に設定され、契約書を交わし、その契約に違反したから規定に基づいて罰金を課す、という措置ならば何の問題もなかったはずだ。そもそも選手の健康管理は自己責任であり、サッカーをやろうと、水泳をやろうと協会は関係ないはずだ。問題は巡業との関係だろう。それなら罰金で良いのではないか。
 今回の措置は、「これまでわがまま勝手な振る舞いを続けてきた朝青龍にお灸を据えてやろう」という懲罰的な臭いを感じるのだ。その結果、予想外の朝昇龍の心の病の問題が起きてしまった。未経験の事態に、相撲業界もマスコミもどのように対応していいのか分からない、というのが現状だろう。
 安倍晋三総理大臣の突然の辞任表明は、朝青龍問題と共通する点が多い。安倍晋三氏は小泉首相の元で官房長官を務め、小泉首相が禅譲するような形で総理大臣になった。いわば小泉人気を継承する形であり、安倍内閣スタート時の支持率の高さは、小泉人気と安倍さんの好感度が融合したものだったのだろう。
 安倍晋三氏は、父親の安倍晋太郎氏の元で秘書を務め、地盤と看板を引き継で、衆議院議員に当選した。総理大臣になるまでのプロセスを見ても、実力が評価されて総理大臣になったわけではない。そもそも、現在の選挙制度そのものが人気投票に近い。人気があることと政治的手腕とは異なるはずだが、なぜかその矛盾は指摘されないのだ。
 安倍晋三氏も朝青龍のように、一人総理大臣(当たり前だが)として責任を一身に背負ってきた。安倍批判をしていた自民党議員も安倍晋三氏に依存していたのだ。
 横綱も総理大臣も同様だが、日本人は「立場が人を作る」という信仰に近い思想がある。「横綱になったのだから品格があって当たり前」「総理大臣になったのだから、どんな重責にも耐え、どんな難局も乗り越えるのが当たり前」と思うのだ。しかし、本人の中身は変わっていない。「そういう立場になれば周りが助けてくれるもの」と期待もするだろう。しかし、実際には責任ばかりを押しつけられ、誰も助けてくれない。そこで、ブチンと切れるのである。
 アメリカの大統領はチームで動いている。失礼な言い方だが、大統領個人の能力がそれほど高くなくてもシステムとして国の運営ができるように考えられているのだ。しかし、日本は全て責任を個人に押しつけてしまう。安倍晋三氏も官邸にチームを作ろうとしたが、失敗した。自民党は派閥以外のチームを認められないのだろう。
 なぜ、今、横綱や総理大臣が逃げ出していくのか。なぜ、かつては正常に機能していたシステムが崩壊しようとしているのか。その問題を解決せずに、個人の資質に責任を押しつけても真の解決にはならないだろう。
 私は「かつての日本には、横綱や総理大臣を育成するシステムがあったのではないか」と考えている。
 相撲ならば、横綱になると谷町筋との付き合いが生じる。巡業等では、多少のいかがわしい商売をしている地元の名士との付き合いもあっただろう。もちろん、金と女の問題もあったに違いない。最近の風潮として「金とスキャンダル(異性との付き合い)」をタブー視する傾向が強いが、社会と接するということは金と他人との付き合いをコントロールすることに他ならない。それが部屋や相撲協会の運営能力を育てることにつながったのだろう。
 政治家も同様だ。議員、派閥の領袖、大臣、総理大臣と上りつめる段階で、様々な社会との接点があったはずだ。そこには当然、金や異性との付き合いの問題も生じる。それらを的確に処理することが、政治家や人間としての幅につながったのではないか。派閥の存在についても、批判ばかりが目立つが、派閥の運営を通して党の運営を学習していたとも言えるだろう。また、派閥内の金や人間関係の問題を解決することにより、よりタフな政治家を育成してきたのではないか。
 現在の相撲協会や永田町は、ほとんど社会との接点を持っていない。「金とスキャンダル」を必要以上に警戒し、社会との接点をなくし、無菌状態の環境に身を置いている。そういう意味ではオタク化しているのだ。
 霞が関も同様だろう。小さい時から塾に通い、一流大学を出て、官庁に勤める。彼らのようなエリートにとって、「金とスキャンダル」はバイ菌のようなものであり、完全殺菌したいと考えているはずだ。
 しかし、社会は二者択一では運営できない。様々な利害が絡み合い、清濁併せ呑まなくてはならない複雑系システムなのだ。複雑系システムをコントロールするには、生態系全体を活性化させることが必要になる。それには多様なものを認めることだ。否定ではなく、許容が重要になる。善と悪を二分し、悪をズバッと切れば世の中が良くなる、というのは幻想である。
 このままで行くと、日本はリーダー不在の国になってしまう。誰も責任を負いたがらない国。社長にもなりたがらず、議員にもなりたがらない。密かに情報を収集し、必要に応じてリークし、陰からコントロールするのが賢い生き方という風潮が加速するに違いない。朝青龍や安倍晋三を責めるのはたやすい。しかし、少なくとも彼らは矢面に立って戦ったのだ。個人に依存するのならば、個人が戦うのに十分な権限と環境を与えるべきではないか。もし、集団で対応するのならば、その集団は無菌状態の密室に閉じこもってはならない。社会との接点を保ちながら、多様な価値観を許容しながら、運営されるべきである。◆

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