「真」を求める創造、「美」を求める創造、「利」を求める創造、「理」を求める創造―――私たちはさまざまな次元で創造を行うが、昨今のビジネス現場では「うわべの理×利得」次元での創造に偏ってはいないか。
◆以前の創造といまの創造が何か別のものになった
ここ数年、私は好んで詩の本を手に取ることが多くなった。もちろんひとつには仕事上の能力向上のためというのがある。あいまいな概念をうまく言葉として結晶化させ、受け手(=お客様)に咀嚼しやすい形で差し出すことは教育のプロとして磨かねばならない能力のひとつだ。
だが、その理由以上に感じるのは、自分自身の仕事における創造や創造する心が、詩作や詩人の心とずいぶん近くなってきたからではないか―――ということである。
例えば、いま新川和江の『詩が生まれるとき』(みすず書房)と『詩の履歴書~「いのち」の詩学』(思潮社)の2冊を読んでいる。彼女は詩の生まれ出るときの様子をこう書いている―――
「あ、このひと、息をしていない―――と自分で気づく一瞬が、私にはしばしばある。われにかえり、深く息を吸いこむのだが、多くの場合、ひとつの思いを凝(こご)らせようとしている時で、周りの空気に少しでも漣(さざなみ)が立つと、ゼリー状に固まりかけていた想念が、それでご破算になる。高邁な思想や深い哲学性をもつ詩の種子でもないのだけれど、ひと様から見ればとるに足りない小品も、そうしたいじましい時間を経て、やっとやっと、発芽するのである」。
また、「詩作」と題された詩は―――
はじめに混沌(どろどろ)があった
それから光がきた
古い書物は世のはじまりをそう記している
光がくるまで
どれほどの闇が必要であったか
混沌は混沌であることのせつなさに
どれほど耐えねばならなかったか
そのようにして詩の第一行が
わたくしの中の混沌にも
射してくる一瞬がある
それからは
風がきた 小鳥がきた
川が流れ出し 銀鱗がはねた
刳(く)り船がきた ひげ男がきた はだしの女がきた
(中略)
それが済むと
またしても天と地は
けじめもなく闇の中に溶け込み
はじまりの混沌にもどる
だから 光がやってくる最初のものがたりは
千度繙(ひもと)いても 詩を書くわたくしに
日々あたらしい
私は自らのビジネスにおいて、詩ほど純粋無垢な創造活動をやっているわけではないが、それでも、彼女の言い表そうとするこの微妙で繊細で、それでいてどこか壮大な感覚を持つことがしばしばある。だから、この文章に接したときに額のすぐ奥のほうの細胞がぴんと反応したのだ。しかし、「創造」という作業は仕事で昔から嫌というほど恒常的にやってきたはずなのに、昔はあまりこういう感覚にはならなかった。
それはなぜだろうと、少し考えを巡らせてみる……。企業勤めをやっていたころの創造は、マスの顧客に受けようとする企てや仕掛け、あるいは、何かゲームに勝つことの戦略や目論見のような類のもので、そこでうまく創造ができると、「してやったり!」といった痛快さを得るものであった。
それに対し、いまの仕事での創造は(主には教育プログラムをつくることであるが)、何か自分から滲み出た(絞り出したといったほうが適切だろうか)作品を売っているそんなような類のものになった。うまく創造ができると「そうか、自分はこんなものをつくりたかったんだ」という驚きがある。このように、以前の創造といまの創造は何か別のものになった。
次のページ◆創造することの広がり図
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。