震災後1カ月半が経ち、日本人は見事な「援助」・「互助」の姿を見せた。以降は、私たち一人一人の「自助」が試されることになる。
私たちは今回の震災で多くの「助ける姿」・「助ける精神」をみた。街角には多くの人が義援金箱を持って声をからした。義援金はメディアを通しても、そして海外からも集まった。お金だけではなく、生活物資も全国・世界から届けられた。そして救出・救援・復興・再建のための労働力もさまざまな形で提供されている。こうした被災者・被災地を「援助」するためのものが広範に迅速に寄せられるのをみるにつけ、人の行為の有難さをあらためて感ずる。
同時に私たちは、被災者の方々が互いに支え合い、勇気づけ合う姿を数多く目撃した。世知辛くなった現代社会、人づきあいが淡泊になったと言われる地域社会で、「いや、人同士のつながりや絆はいまだ健在だった」と感じることができた。「互助」の精神は日本人のなかに、そして国境を越えて人類のなかに、きちんと生き続けているのだ。
さて、気がかりなのは「自助」だ。確かに、地震から1カ月半が経って、たくましくみずからの人生を立て直そうとする人びとの物語を私たちはテレビなどのマスメディアを通してひとつひとつ知ることができる。しかし、いまだ多くの人は無為にしか過ごしようのない日々を送っているのが現実だろう。
立て直そうとする意志もある、身体もある、技術もある……しかし、土地が汚染されていて作付けができない農家。同様に、酪農家や漁師の人たち。仮に作物ができたとしても、風評という力によってお客がつくかどうか。「自らを助けよう」にも、仕事がかなわないのではどうにも立ち行かない。
「援助」もきた。「互助」もある。しかし「自助」がくじけてしまっては、真の再生復興はない。
私たちは、例えば発展途上国への支援のあり方で次のようなことをすでに知っている。―――彼らが真に必要なのは、「お金」ではなく「お金を稼ぎ自立するための手段」であることを。
「自助」の根本は、仕事をすること。そして「自助の精神」の根本は、仕事をやることに意味と喜びを見出すことだ。今日の社会において、人は仕事を通じて、生活の糧を得、自分の身体と精神をつくり、協働し、他者や社会に貢献していく。そしてその過程がまさに「自らを助ける」ことにほかならない。
生きる意欲を持った者なら誰しも、援助だけで生きていくのをよしとしないだろうし、互助だけで生きていくことにもどこか限界を感じるだろう(援助・互助は無論大事なものであるが)。私たちは最終的に、自助の力を湧き起こして、一人一人立ち上がりたいのである。
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2010.03.20
2015.12.13
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。