ほんとうの祈りは、「他からこうしてほしい」とおねだりすることを超え、「自分が見出した意味のもとに何があってもこうするんだ」という覚悟である。祈りがそうした覚悟にまで昇華したとき、その人は、嬉々として、たくましく動ける。
きょうは年始にふさわしく、「祈り」というテーマで書きます。正月3が日のテレビニュースの定番といえば初詣。世の中や生活が平和であれば益々の安泰を願い、不景気で不安定であれば、よりよくなることを願う。いずれにしても人びとの心の中から祈りが消えることはありません。
しかし、私個人は、この年始イベントとしての初詣風景を、少し遠くから見ている一人です。一つには、一部の寺社に商業主義めいたものが目に付くこと。そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にあります。
もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もありますし、真摯な信仰心で詣でる人はたくさんいます。私自身も仏教を信奉する一人ですが、私は近所の多摩川に出て、昇りゆく太陽に一人静かに祈りを立てるだけのスタイルでやっています。
◆請求書的祈り・領収書的祈り
仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには2つの種類があることをこう表現します。
「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、私は『請求書的祈り』と名付けていますが、本物の宗教心というのは、“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という『領収書的祈り』なんです」。
――――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より
私が一億総初詣に「どうもなぁ」と思ってしまうのは、その多くが『請求書的祈り』になっていやしないかと思うからです。そしてそこには「500円玉でも投げ入れて、これをきいてもらおう」という「賽銭」が飛び交います。もし、これで、本当に願いがかなってしまうのなら、私はその神仏や信仰心(?)は、逆に、あやういものだと思います。
◆職人の心底に湧く「痛み」
ここからは「仕事・働くこと」の要素も含めながら「祈り」を考えていきましょう。「祈り」について、私が著書でよく引用するのが次のお二人の言葉です。西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った知る人ぞ知る宮大工の棟梁です。彼は言います―――
「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向かって一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないんです。おんぼろになって建っているというんやないんですからな。
しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです。
こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、自然に対する人間の当然の義務でっせ」。
―――『木のいのち木のこころ 天』より
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。