結果とプロセス、どちらが大事か。成功に躍起になる生き方と意味を充足させる生き方、どちらが幸福か───3人の賢人の言葉から考える。
人の欲望にあらかじめ、それが「よいもの」「わるいもの」というラベルが貼ってあるわけではない。「こうしたい」「ああなりたい」「あれがほしい・これを手に入れたい」といったエネルギーは、人を育てもするし、惑わしもするし、壊しもする。
若いころの欲は、往々にして、「具体的で功利的な結果」を求め、「自己に閉じがち」である。しかし、その人が“よく成熟化”していくと、欲の性質が変わっていくように思える。つまり、「意味の感じられるプロセス」を求め、「他者に開いていく」心持ちになっていく。
ただし、この変化はそこに書いたように“よく成熟化”した人間が得られるのであって、年齢とともによく成熟化ができないと、依然、欲は結果に拘泥し、自己に閉じたまま、いやむしろ、それが強まりさえしてしまう。
私自身、決してよく成熟化しているとは言えない凡夫なのであるが、個人的に振り返ってみるに、やはり20代、30代の欲は、功名心や野心めいたものの力が強かったように思う。メーカーで商品開発を担当し、次に出版社に転職をして雑誌の編集をやったが、「ヒット商品を当てて世間を騒がせたい」「スゴイ記事を書いて世の中を驚かせたい」と鼻息は荒かった。そのためにいつも自分が担当した商品や記事の販売数や閲読率という数字に執着していた。成功者になりたいというエネルギーは、多分に自己顕示欲を満たしたい、自己優越感に浸りたいといった感情を連れ添っていた。
また、「自己実現」という言葉が流行ったときでもあり、「そうだ、すべてはジコジツゲンのためだ!」とストレスと疲労が溜まっても自分にモチベーションを与えて頑張っていた。が、いま考えると、その自己実現は「利己実現」ではなかったかと恥ずかしくなる。
しかし、年を重ねるとは、有難や、不思議な影響を人間に与えてくるもので、私は41歳でサラリーマンを辞め、教育事業で独立をした。1つには“消費されない仕事”をしたい。消費されない仕事とは、人をつくる仕事だと思うようになったこと。そしてもう1つは、「大きな目的のために自分を使いたい」と心持ちが変化したことだ。
私は子供のころから身体が丈夫なほうではない。大病こそせずに済んでいるが、いつも身体のことを気にかけている。もし私が、昭和以前に生まれていたなら、この生物的に弱いつくりの個体は、とっくに何かで死んでいただろう。医療が発達し、物質が豊かで、衛生環境もよい現代の日本に生を受けたからこそ、ようやく私は人並みに働くことができ、生きている。私は40歳になったとき、「40以上の寿命は天からの授かりものと思って、今後はもっと世のため人のためにこのアタマとカラダを使いたい」と思った。
そういえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、あの1970年「よど号ハイジャック事件」に乗客として遭遇し、無事解放されたときに、「これからの人生は与えられた人生だから、人のために身をささげようと決心した」と語ったエピソードは有名である。そしてまさに、先生はそうされている。
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。