「代替されない仕事」をする人は自己価値を上げていく。「代替される仕事」に甘んじ続ける人は自己価値を下げていく。自分の価値を上げることは、その上げる分の傾斜を上ること。
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人生が長くなった。
会社勤めであれば、一般的に60歳で定年退職を迎える。
いまの60歳は若い。
仮に貯蓄や年金でリタイヤ後の生活に金銭的な不自由がなかったとしても、
毎日が趣味の日、毎日がレジャーの日、毎日がのんびり休息日・・・なんていう人生は
はたして面白いだろうか?
あるいは、死ぬ間際に心底それでよかったと思えるだろうか?
誰の言葉か忘れたが、
「毎日が休日というのは、ある一つの地獄の定義である」とある。
実際のところ、私たち庶民のほとんどは、
経済的に60歳以降も働かなければならないだろうし、
精神的にも働いた方が健全であることは間違いない。
しかし、問題はそのとき選択肢がどれだけ目の前にあるか、だ。
団塊の世代が定年退職を迎え、再就職に回る姿がテレビなどでよく紹介される。
元の会社で再雇用される人は幸運な部類だが、
それとて契約社員扱い、給料は退職前と比べて激減する条件を提示され
本人が愕然とする場面がほとんどだ。
定年に限らず、私たちはどこかひとつの会社を退職して、
一個人の働き手となった瞬間から、労働市場の中で自分の価値を厳しく問われる。
働き手として自分の価値が十分に高ければ、好条件での引く手はいくつも出てくる。
逆に自分の価値が低ければ、選択できる手は少なくなる。
自分の価値を値踏みされるのが嫌なら、自分で商売を始めるしかない。
サラリーマンでい続けると、こうした自分の価値に対して意識が鈍感になりやすい。
自分の価値に早くから意識を高くもち定年を迎えるのと
意識をもたずに定年を迎えるのとでは、それこそ愕然とする差が出る。
働き手として自分の価値―――それは主に知識や技能といった能力資産、人脈、自律意識、
就労観、人徳、健康などによってつくられるが―――は、一朝一夕には高められない。
だから、
60歳になって世間の客観的評価に愕然としなければならない現実を避けるための闘いは
実は今のこの時点から始まっている。
そこできょうは「働き手としての自己価値」について私見を紹介したい。
自己価値を語る前に、仕事には2つあることを押さえたいと思う。
それは「代替される仕事」と「代替されない仕事」である。
前者は言いかえれば「誰でもやれる仕事」、後者は「あなたでしかやれない仕事」である。
両者の境界線は必ずしも明確に線引きはできないが、
私たちが日々行う仕事は、たいてい、この2つの要素の混合である。
両者の特徴としては図にあげたようなものだ。
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【仕事の基本概念を持つ】
2009.08.20
2009.07.26
2009.07.18
2009.07.11
2009.07.08
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。