疑い続けても仕方がないこと、信じ続けても仕方がないこと、弁えることは大切です。 それにはまず、自分の弱さを認めることから―
東京電力の情報公開を巡る動きを声高に批判する方がいらっしゃいます。
政府の情報公開を巡る動きを声高に批判する方がいらっしゃいます。
いずれも、
「(政府や東電が)ほんとうの情報を伝えていない、という疑いからくる怒り」
が根本にある方が多いと思われます。
被災者の方は、被災者の方しかわからない複雑な感情もありますから、お気持ちも十分察しますし、批判があれば政府も東電も甘んじて受け止めるべきだと思います。どちらも「当事者」ですからね。
しかし、第三者が、彼らが公開した情報を「声高に(声を荒げて)批判する」までするのはどうかと思うんです。
そのこと自体が「人間としてなっていない」云々ではなく、理屈として。
※もう少し蛇足的に付け加えると、「その理屈があるのに批判するのは、一度自分自身の姿勢を考えてみた方がいいよ」という意味で捉え「(考えなし、という意味で)なってない」とは思います。
被災者が声を荒げて批判するシチュエーションを想像してみてください。
これからどうしていいかわからない…頼る情報が他に何もない…
そこで情報公開が遅れたり、間違いなどが散見されたら、それは怒りますよね。
つまり「どうしていいかわからない」「頼る情報が他にない」という弱い立場におかれている当事者だからこそ、限られた“信じる選択肢”から出された情報に疑いももつわけです。
「信じたい、だから疑う。」そんな気持ちですよね。
情報元を疑い、声を荒げて批判する、被災者以外の方に伺いたい。
その目的はなんですか?と。
あなたが盲目的に、何かを信じないと生きていけない、とても弱い人だからこそ、そこまで疑うのではないのですか?と。
…自分のことでもないのに、声を荒げて批判するところまでいったら、自分がピンチのとき、あなたに情報を伝えようとする周りが誰もいなくなり、あなたは孤立しますよ、と。
まったく逆の方がいらっしゃいます。「信じたい。だから信じる。」という方。
こんな方もすがる所がない、弱い人の現れですよね。
(タチの悪い宗教のようなものを盲目的に信じるパターンを想像してみてください)
この両者へのアプローチが各々見事に現れたのが、「購買者の良識を見せるとき~最新号の『AERA』と『週刊ポスト』」で記事化したことだったと思っています。
だから、本質的には同じですね。購買層のメインターゲットの1つとして、弱い人の層を狙ったところでは。
ここでは僕は『週刊ポスト』は買う、『AERA』は買わない、と宣言していますが、これはあくまで、「表紙を見た」ことで「購買を決める」のであれば、「信じたい、だから信じる。」方に、(たとえ宗教がかっていても、このタイミングでこの表紙であれば)日本が向ってもいいのではないかな、と思ったからに過ぎません。
…でも、「信じたい。だから信じる。」が、ずーっと社会に蔓延るのも、少し気持ち悪い気がします。
なぜならそれは、上述の論理に従うなら、社会の弱さの表れ=何も克服できていない、ということになりますから。
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