「皆さんの年金は、自民党が、しっかり守ります。」 「きっちり納めれば、しっかりもらえるものと思っていました。」 アタリマエのことを声高に叫ぶ、そんな社会の水準ってどうなんでしょうね。
自民党のポスターに、先日選挙のときに書かれていた言葉。
「皆さんの年金は、自民党が、しっかり守ります。」
今度は民主党のポスターを巷で拝見。
正確には忘れてしまいましたが、自営業の方が正面を向いて
「きっちり納めれば、しっかりもらえるものと思っていました。」
とデカデカとした文字で。
払ったものを返さないなんて、泥棒と同じ。
誰から見てもアタリマエです。
なんでこんなことをポスターにするのでしょうね。
このような「アタリマエで、やってはいけないこと」を表面に出し、大袈裟に言えば「顕在化」させることは、ますます社会の文化水準を落とすと思うんです。
今回の場合、このポスターに「書く」ことよって、ある意味
「年金を若いうちに納め続けてももらえないことがある」
という、「アタリマエのことができていない」事実の存在を認めたことになります。
実際にそういうことが問題化したわけですが、それをさらに声高に叫べば、その問題を解決するのではなく、逆に社会に根付かせることを後押しするのではないかー
僕はそう思っています。
アタリマエのことができていない場合、アタリマエができるように修正するには
・冷たい目で見る
・無視する
・ほおっておく
それが一番ではないでしょうか。
※もちろん、被害にあった方は、直接社会保険庁とやり取りするべきでしょうが、ここでは、社会全体の中での姿勢を書いている、とお考え下さい。
たとえば、組織の中で、年長者がこんなことを言います。
「最近の若い者は、アタリマエのビジネスマナーもわかっていない。そのアタリマエを教えなければいけないのが情けない。」
もちろん、アタリマエのことができていないのは恥ずかしいことです。
短期的に見たら、それを教えることで、その「アタリマエ」のことには対処できるようになるかもしれません。
しかし、他のアタリマエのことができていないとき、また対処法を教えなければいけない若者に育ててしまうかもしれません。
アタリマエのことができるようになるには、「アタリマエのことができるようにならないととても恥ずかしい」という本人の認識を生むことが一番大事です。
そのためには、アタリマエのことができていないときに、過剰に注意したり批判したりして、結果的に「(アタリマエのことができていない、という)事実の存在を認める」ことになるのは、好ましくありません。
社会なり、組織なり、アタリマエのことができていない、というほころびがあった場合には、社会や組織から
「アホちゃうか」
言葉ではなく、雰囲気でそう感じさせるのが、水準の高い社会や組織になるような気がしています。
「年金は必ず守ります」
「年金は払ったらもらえるもんだと思っていました」
「アホちゃうか。」
そう思える社会の構成員が増えないと。
決して共感などせずに。
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