タコ焼きのルーツを探る

2013.05.07

ライフ・ソーシャル

タコ焼きのルーツを探る

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/タコ焼きの秘密は、あの多壺鍋。十三世紀のタイで作られ、オランダやフランスに渡って鉄板になった。そして、1900年ごろの神戸で、それで作っていたエスカルゴのベニエ(小麦衣焼き)の具がタコに変わったらしい。/

 ウチこそ、タコ焼きの元祖、という店がいくつかある。じゃあ、なんでタコが入ってるのか、ちゃんと説明してみせろよ。博物館で当時の現物まで抑えたわけじゃないが、おおよその道筋はわかった。その謎を解く鍵は、あの丸い凹みのある多壺焼器にある。じつは、あれ、驚いたことに、アジアからヨーロッパ、カナダまで、世界中にあるのだ。

 話は、十三世紀のタイから始まる。スコータイ朝第三代ラームカムヘーン大王が、中国から陶工たちを招聘した。それまでタイでは水の滲みる素焼の土器しかできなかったのだが、この華人陶工たちによって釉薬が持ち込まれ、宋胡禄として、タイの一大輸出産品となった。また、タイでは、昔からカノムコック(米粉のココナッツミルク焼き)が甘い菓子として好まれていたが、これを作るのに、いちいちバナナの葉で小分けしていた。それが、釉薬の登場によって、多壺陶器鍋に取って代わる。これこそ、まさに、あのタコ焼き器の大元。

 話はまだ続く。この多壺陶器鍋が直接に日本に入ってきたのなら、山田長政の時代から日本にもカノムコックのような食べ物があっただろう。だが、日本に米粉はあってもココナッツミルクは無く、カノムコックのようなふんわりとした焼き菓子を作ることはできなかった。だから、そのための多壺陶器鍋も必要がなかった。そうでなくても、カノムコックには、甘く、なんの具も入ってはおらず、現在のタコ焼きとは根本的に違う。

 だが、まさにその山田長政のころ、オランダもまたタイに入り込んでいた。が、1663年に華僑たちと貿易を争い、追放されてしまう。この後、ヨーロッパでオランダ打倒をもくろむルイ十四世のフランスがタイに取り入る。しかし、これもカトリックの宣教がしつこく、十七世紀末には追放されてしまった。このとき連中がヨーロッパに持ち帰ったのが、あの多壺陶器鍋。

 オランダには米粉が無いので、小麦粉と蕎麦粉で代用した。これが、お菓子のポッフェルチェ。その独特の多壺鍋は、その後、鋳物の鉄板で大型化し、デンマークからカナダまで、ポッフェルチェは爆発的に普及する。クリスマスシーズンには、各地のマーケットにポッフェルチェの屋台が出る。ドイツやオランダなんかでは、日本のタコ焼き器そっくりの家庭用ポッフェルチェ焼き器がふつうにそこらで売っている。

 一方、帰国したフランスの宣教師たちは、この多穴陶器パンをエスカルゴの調理に使った。エスカルゴは、修道院の葡萄畑で養殖されており、復活祭前の肉断ちの季節に好んで食べられていた。エスカルゴと言うと、殻ごとのイメージがあるが、あれは、いったん全部を引き出し、寄生虫の危険性がある内臓を取り去って味付けし、また殻に詰め直したもの。当時は、内臓を掃除した身だけを多壺陶器鍋で直接に香草バター焼きにしていたようだ。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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